たれも知らぬ海の泡と
----------------------- 『まぁタギ。あなた、そんなものどこで見つけて拾ってきたの』 にわかにあがった明るい声に地狼は軽く耳を寄せる。 『どこって書庫に決まってンだろ。あんたでもこんなもの読んで育ったんだな』 どこか感慨深い気な黒髪の魔法使いがためつすがめつ持つ手には、古ぼけた絵本。 ちらと表紙に目を走らせると、それは人でない彼ですら知る物語のようだった。 他愛ない、悲恋もの。 この屋敷に備えられるには確かに少しばかり不釣り合いとも思える。 『どーいう意味?』 複雑な育ちの娘はもちろん男のささやかな感動になど気付くはずもなく、冗談めかした忿懣に悲哀は隠しきれていなかった。 (うかつなことだな魔法使い) 娘の瞳が陰りを含んだことに、らしくもなく慌てるさまはほほえましいとも、もどかしいとも判じ兼ねて、横たえていた頭をもたげた彼の視界に金の光り。 途端、薄暗かった室内に風が清涼に過ぎて、和らいだ。 屋敷を囲む森の空気を持ち帰ったその主は、魔法使いの手にあるその淡い色合いで美しく染められた(どう見ても魔導書には見えない)書物を見て目を丸くする。 『なんだずい分似合わないものを持ってるなタギ!』 言われてみれば、絵本と男の組合せは屋敷の書庫とよりなお似合わないように思われた。それもお涙頂戴の悲恋ものとなれば、豚に真珠より滑稽とも。 だが。 (魔法使いに恋物語) 今は。 (あながち関係のない話でもない、か) 彼は一人胸にごちたが、それを知るのはまだ彼と当の本人ばかり。 だから、からかいに満ちた明るい声に男は、けれどこの時ばかりはひそかに安堵を潜らせて、小さな娘に余裕たっぷりに言い返す。 『おまえにはちょうどいいんじゃないかシェイラ?』 美しい絵本をくるくると器用に指で回して意地の悪い顔を魔法使いはしたが、しかし喜色を含んだ薄紫の瞳に返り討ちにあう。 『読んでくれるのか、タギ?』 魔法使いが恋物語の朗読! その提案は沈みかけていた天使の娘でさえ笑ませたから、どれほど可笑しいか自ずと知れる。見当はずれな結果と、思った以上の効果に、男が複雑に視線を泳がせるが、もちろん彼はそんな楽しい行いを止めるつもりはさらさらない。どうする気だろう、とふさり、と尻尾を揺らして―――思い出す。 誰もが知る、その物語の筋。他愛ない、悲恋もの。異種族の人間に恋した、精霊の娘の―― 思わず立ち上がった彼を、男が目聡く捉える。 『あー、あー……、残念だったな、ヨールの旦那が安眠妨害だとよ!』 都合よい逃げ口上の題材は的はずれではあったが、(助かった)と考えたのも確か。男の都合に便乗し、とぼけた仕草でいかにも獣くさい伸びを披露する。 『まったくだ、魔法使いの朗読など聞くに堪えぬ』 しかつめらしく欠伸ともため息ともつかぬ息を吐けば、小さな手が彼の毛皮をやさしく撫でた。 『確かにタギじゃ、吟遊詩人のようにはいかないな』 『そう、せっかく寝物語を聞くのならぜひ竪琴付きで願いたいもの』 『まぁ、ヨール、あなた意外に贅沢だったのね』 『そうとも、天使族の娘。ここにはこれだけよい声の持ち主がそろっているというのに、わざわざと耳を汚すことはあるまい?』 牙を見せつけるように笑ってやれば、呼応して返される笑声は何物にも代え難い、宝のようで。どーいう意味だっなどという呻きはそれらに比べれば、やはり聞く価値はないのだ。 古い屋敷の一室はかつて充満していたろう暗闇を払拭したかのように穏やかさに満ちてみえたし、窓の外は生きる喜びに余念ない季節。 『さて、風龍殿。外はとても良い陽気だ。そこのカビくさい男と本の虫干しにはうってつけの日だとは思わないかね』 いささか唐突に思える脈絡のない提案は、それでも両手をあげての歓迎を受け(もちろん約一名を除いてだったが)地狼好みののんびりとした午後は慌ただしい賑やかなものへ変わってしまったけれど、彼が感じる不安を知る者は、まだこの場には誰もいないのだ。 知らせる必要もない、とそれほどに心地よく。 このままであればよい、と密かな息を吐く。 |