帰宅すると、玄関中に甘い香りが漂っていた。 これはまた塔子が何か作ったに違いない。思わず顔をほころばせて、そそくさと表現できる足取りで台所に顔を出す。 「ただいま帰りました」 戸を引けば、匂いはますます顕著だ。 「あら、お帰りなさい」 調理場に立つ塔子が振り向いて華やいだ声を出せば、気持ちまで浮き立つようだった。 「ちょうどいいところ!」 差し出された皿には、きれいに焼けたパンプキンパイがひとつ。 「おおお、うまそうですね」 世辞ではない期待と……照れが声に滲(にじ)む。 「ふふふ、買い物に出たら街中かぼちゃだらけなんだもの。ついつられちゃったわ」 今まで、こういった行事にはとんと縁がなかった。さすがに正月くらいは末席に収まってはいたが、それ以外となると……どこに預かられていても家族ではない夏目に居場所はなかった。 「さぁ、貴志君。呪文をどうぞ?」 だから、ずいぶんと面映い。 小さく唱えれば、塔子がますますにこにこと笑った。 ***** 「とりーっくおぁとりぃ〜っと!!!」 皿を両手に自室へ入った途端、素っ頓狂な声が響いた。 「………先生?」 部屋の真ん中でくるくる踊る猫からは――酒の匂い。 昼間から! と呆れれば、器用にもぴたりと二本の後足で立ち、ふんぞり返った。 「今日は祭りだ、呑んで何が悪い」 そうして、ぴょい、と夏目の肩まで駆け上がる。いったいどれだけ呑んだのか。鼻に届く酒気はかなり強い。 「酒臭いぞ、先生……」 呆れて言ってやったのに、酔いどれ中年妖怪はちっとも悪びれず、それどころか、鋭い爪を頬のそばでこれ見よがしに伸ばして見せた。 「とりっくおあとりーと! と言うとろーが」 にたにたとした顔はいやらしく、仕方なしにパイを端から一欠けら、猫の口に放り込む。 酒のつまみに甘いものなど普通好まれないはずなのに、この妖はなんでもいいらしい。それに。 「なんだって先生がハロウィンなんだ」 ごく最近ようやく定着してきた行事――というよりもむしろイベントと、妖怪の組み合わせはなかなかにそぐわない。 味わうように咀嚼してから、猫が目を細める。 「ふふふん、人の引いた線など妖には関係ない。我らにあるのは、彼岸と此岸の線引きだけだ」 「え! じゃあ、昔からあるのか?」 遠いケルトの風習を妖怪たちは知っていたのかと驚いたのに。 「あほう。あるわけなかろう」 最近の話さ、と先生は憎たらしく笑った。 そうして、肩からするりと下りて、窓の桟に足をかける。 「見ろ、ほら、行列が行く」 誘われるままに近づいて見下ろせば、なるほど、ぞろぞろとどこから湧いて出たのかと思わんばかりの妖の群れが、百鬼夜行の体をなす。だが、その窓の下を行く百鬼夜行はグローバルというより、無国籍と言った風情だ。 ちらほらと見知った妖も混ざっている? ほら、今、大きな牛の妖怪の足下を走ったのは翁の面の――…! しがみつくように前屈みになった夏目を先生がそっと頭で部屋へ押し戻す。そうしておいて、先生自身はどろり、と本性に立ち戻り、窓の外、中空に浮いた。 「あれには死者も加わっている」 白い大きな体から、からかうような声がする。 「さぁ、夏目、生者と死者の違いがわかるか?」 「えええっ」 まさか! 人には見えないものを目にする夏目にしても、幽霊は専門外だ。 もう一度、無言の列に目を落とす。けれど、今はもうさっき見えた気がした小さな影などどこにもない。妖たちはいつもどおり、思い思いの姿かたちで、田舎の往来を闊歩しているように見えた。……ただ、それだけだ。 「先生はわかるのか?」 この中に、もはやこの世のものではないものが混ざっている? 偽猫から、自称優美な姿へと変じた先生は、長い尻尾を暗がりでゆらりと揺すって言い放つ。 「わかるわけがなかろう」 「………」 「バカモノ。それがこの祭りのミソではないか」 彼岸と此岸の境が融け、死者が生者に交わる日。 「決まり(ルール)はひとつ。誰とわかっても名を呼んではいけない」 かつては確かにこの世に存在せしめたもの、今では遠き彼岸へ渡ってしまったものが、立ち戻る ――ならばそれには、夏目の記憶には残らぬ、伝え聞くばかりの存在も………? 「守れるなら、つれてってやる」 行くかい、夏目。 先生の細い目はやわらかく、まるで夏目が脳裏に誰を描いたかわかっているかのようだった。 ………………あぁ。 あぁ、けれど。 吐き出すために息を深く吸い込めば。 鼻をくすぐるのは甘い南瓜の暖かな匂い。 (――おれは、いま、しあわせだ) だから。 分かたれたモノを今は追うまい。 皿を持つ手にそっと力を込めれば、無言の夏目を、先生が笑った。 「贅沢モノめ」 そんなふうに言って笑った。 |
夏目サーチ様ハロウィン企画投稿文。 ……最近の赤い狸の小説はいつも笑って文章が終わる……わんぱたり。 08.10.25 [ 戻 ] |