<それ>は上機嫌だった。
 腹いっぱいにうまいものを食べたのだ。
 それに、秋の空気は軽く澄み、風はさわやかに吹いた。
 翔けていた空を離れ、眼下に見えた赤い絨毯に降りたのは、だから、ただの気まぐれだ。
 降り立ってみれば、緋毛氈の正体は一面の曼珠沙華だ。
 髭をぴんと立てて、赤絨毯を踏み荒らす。
 白い大きな体躯のそれが畦端を跳ね回る姿はどこか滑稽だったが、誰も見るものはいないのだ。
 何しろ、<それ>は尋常の生き物ではなかったので。
 力を込めた足裏で地を蹴り、思う様跳ねる。
 赤い花はそれなりに無残に折れ、散らされ、畦はますます赤くなった。
 けれど、只人の目にはつむじ風がいたずらをしているようにしか映らず、花は独りでにあちらこちらへと揺れ動いて見えるはずだった。
「ねぇ」
 だから、くすくすとした笑い声が耳に届いたとき、<それ>はひどく驚いた。
 声のした方向から身を捻って、一瞬の後には迎え討てる体勢で伏せた。
「あなた、わたしと勝負しない?」
 <それ>の大きな琥珀色の目に飛び込んできたのは、ひょろりと細い人の子だ。
 長い髪を無造作に風に散らしながら、首を傾げて<それ>を見ている。
 見えるのか、などと愚かな問いは発しなかった。色素の薄い――そのくせ力に満ちた瞳は、<それ>を誤ることなく捉えていたから。
 口元に刷いた薄い笑みには、異形を目した驚きなどどこにもない。
「わたしに勝てたら、わたしのこと食べても良いわよ」
 娘は細い腕をこれ見よがしに伸ばしてみせた。
 食うところなどないではないか。
 そう答えようとして、<それ>の鼻が甘い香りを得る。折れた墓場草の青臭さに紛れながらも確かに届いた。
 娘は美しかった。
 なぜかあちこちと擦り傷や打ち身の残る肌だったが、それでもそんなものはなんの瑕瑾にもならない。
 確かに、おそろしく美味そうだった。
 けれど。
「断る」
 にべもなく言い捨てれば、娘がふくれた。その表情の変化はいかにも『人間臭さ』に満ちていて、かえって演技じみていた。
「どうして?」
 ガキの背伸びだ、と<それ>は見切りをつけて、ケチのついた遊びも止めて、空へ戻ろうと四肢をたわめた。
「負けるのが怖い?」
 背中を追いかけた声に、空へ片足をかけた状態で、<それ>は笑った。
「私に勝てる気か人の子。生意気な」
 笑うと、顎(あぎと)にずらりと並んだ牙が毛並みの純白以上に真白に見えた。
「あら、じゃあ、どうして逃げるの?」
 それでも娘は怯むことなく視線も鋭く、<それ>に挑んだ。
「逃げるわけではない」
 面倒くさいことはキライなのだ。
 せっかく腹はくちくて、天気も良いのに、わざわざと争う気にはなれなかった。
 もう、そのまま空へ駆け上がる。<それ>の起こした一陣の風に、赤い花と娘の黒い衣装、色の薄い髪が揺れた。
「ちょっと! わたしはおいしそうではない?」
 もう手の届かないところへと移った<それ>に娘が拗ねた。
 可笑しな娘だ。
 妖ものを煽って、勝負を挑んでどうするのだろう。あの細いちっぽけな手足で、勝てるつもりでいるのが可笑しかった。
 長い尾をぴしり、と空中に流して、娘の上空を旋回する。
「生憎、今は満腹だ」
 どんなにおいしそうでも、今の状態で食べれば、胸が焼けるに決まっている。<それ>は二度は娘を見下ろすことなく、翔け去った。


 あの娘とまた会うことがあるのなら――次も腹が満たされている時であればよい。

 そんな風に思ったことは、<それ>の誰にも言えない秘密。





や、やっと書けました! 捏造ニャンコ先生とレイコさんの出会い編。
ネタは思いついていたのに、修羅場中で手が回らなかったのでした。 08.10.09 [ ]