新月の夜に




 楽園などなかった。
 山を下ったその広い土地にも、広がっているのはやはり生きることと死ぬこと。
 丈夫で早く駆けられるしなやかな体躯を持つものらは、とろいメイをけっして仲間に入れようとはしなかったし(メイは真っ白で、茶色が続くこの草原では目立って仕方がなかった)、それらを狙うものたちはいつだって『ご飯』に齧り付くことしか考えていないようだった。
 もっとも、ここではもとよりひとりだったから、疎外感に苛まれる心配だけはない。
 水場から遠い、茂みからも外れかけた、岩の多くなり始めたあたりで、メイは毎日を過ごす。
 お腹が空いたら草を食み、喉が渇けば水溜りを探し、眠くなれば眠り、寂しくなればうたを歌う。
 かつて一緒に歌った声は、現実には鼓膜を震わせてはくれないけれど。
 今も、雪深い、山のどこかに埋もれているのだろうけれど。
 メイには絶対に出せない掠れた太い声は、それでもやさしく響いたことを覚えている。
(あぁ、ガブ)
 きみはわたしを食べるべきだったんだ。
 繰り返し、くりかえし、考える。
 筋の多い堅い草を何度も何度も噛みながら、その数だけ、考える。
(わたしは草と友だちになど、ならないよ)
(草が口を利いたって。けして。決して)
 暗闇で、寂しくて。心細くて。
 草が口を利いたとしても。
 草は草。ヤギはヤギ。
 奥の臼歯で草を食む。
 筋だけが、いつまでも口の中に残る。
 また、噛む。まだ、噛む。

 悲鳴など、聞こえない。

 己の終わる最期の日まで二度と言葉はしゃべるまい。

 ---05.10.06



 見慣れぬ獣が住み着いた、そんな噂を聞いたのは沢辺の隅。
 足の長い水鳥たちはひどくおしゃべりで、いつも他愛ない噂話ばかりしているけれど、そのときも水を飲みに赴いたメイに目もくれず、仲間同士で騒いでいた。
 いわく。
 山も近い、岩場にそれが現れたのは夏も始まろうかという遅い春。
 真っ黒いごわごわの毛に、大きな身体を引きずるように歩く。
「眼つきがなんとも陰険でさ、ちょっと頭の上を飛んだだけってのに、羽が汚れた気がしたよ」
「まー、いやだ、あたしだったら近づく気だってしないよぅ」
「まさかここまで水を飲み来たりはすまいねぇ」
「もともとは山の向こうの生き物だって話だよ」
「まぁ!」
 ちらり、と何羽かがメイの方を盗み見て、それ以後声は届かなくなったけれど。
(黒い大きな)
(山の向こうの)
 四肢からくたりと力が抜けて、駆け出したいのに走れない。
 のどの渇きなど、一瞬にして忘れてしまった。
(ガブだ)
 よろける前足を前に一歩。
(きっとガブだ)
 前に傾ぐ身体を後ろ足で支えて、二歩。
 ざわり。
 草原を渡るつむじ風が、メイの周囲を騒がして過ぎていった。
(――…あぁ)
 嘆息は長く、残った風にさらわれる。
(ガブであるはずがない)
 季節はもう、夏の終わり。
 メイに会いに来てくれないなら、その獣はガブではない。

 ---05.11.08



 己はけものとしてどこかおかしいのだ、とその黒い獣は言った。
 食い物にまず哀れみが先立ってしまうのだ、と力ない濁った瞳に怒りか、やりきれなさか、そのときばかりは力を込めて。
 口を利くやつなどてんで駄目だ、追いかけてはみるものの目があったりしたら、もういけない。足がすくんで進めなくなってしまう。
 君を見てもそうだ。胃袋は喜んでよだれを山ほど作るけれど、もっと奥、心臓だろうか、わからないどこかがぎゅうっと痛む。食いたい。食いたくない。食いたい、食いたくない。その繰り返しだ。
 見えるか、これが。と獣は大きな口をぱくりと開く。ずらりと並んだ牙は幾本か欠けてはいたけれど、残ったものは鋭く危険に満ちていて、我慢できないとばかりに唾液は垂れて地に染みた。しかし、その開いた顎から彼の瞳に目を移すと、悲哀に沈んだそれが見るものまで悲しくさせる。無言で返して同じように見つめると、ゆるゆると歯の根を閉じた。
 定められたはずの、与えられたはずの食い物を食うことができない己は、けものとして狂っている。
 正しくない、口を聞かぬ草木や虫で空腹を紛らわしながら、浅ましく生きながらえている。
 苦しい。
 どちらを選んでも苦しい。
 そうして、あぁ、と深い息をついた。
 メイの答えは。
 黒い獣に与えることのできるメイの答えはもう、とうに決まっている。
 彼がガブであるならば。
 ガブでなくなったガブであるならば。
「わたしなら、その病をきっと治して差し上げられます」
「君が? ヤギでしかない君が?」
 獣はわずかに黄みがかった歯をむいた。
「オオカミになどなったこともない君が?」
「ええ、オオカミになどなれはしないヤギであるからこそ」
 『ご飯』であっても、友だちになれるだろうと思ったのだ。
 『ご飯』でなくなることができるだろうと思っていたのだ。
 とんでもない大きな、勘違い。
「今度の月のない晩、冬の星座がてっぺんに昇る頃、もう一度ここで会いましょう」
 うんともすんとも答えない獣に、メイは笑って「かならずですよ」と念を押した。

 ---05.11.10



2007.10.03 [ ]
『狸の穴』より収拾
……最後は書かない方がよさそう…(笑)
なので、止めてるんですが。ふふふ