霧の城
城は昔からそこにあった。 静かなしずかな古い森を抜けて、眼前に湖を迎えると同時に城が見えるのだった。 湖はいつもたいてい霧か小雨かわからないものに覆われていて寒々しく、けれど時折風が気まぐれに吹くと、太陽を受けて金あるいは銀に輝いた。 城も同じだった。 まれに霧が晴れて姿を現すと優美に白く、翳ると堅固な牢獄のように重々しかった。 城は昔からそこにあった。 誰もいつ建てられたのか知らず、それどころか、誰のために建てられたのか知る者もいない。 けれど、誰もが知っていることがたったひとつ。 そのためにイコは今こうして馬の背で揺られている。 森に響くのは、軽やかな鳥のさえずりと、木漏れ日を受けてさえ墨をこぼしたような黒馬の荒い鼻息に、擦れ合う馬具の金属音だ。 それ以外、何の音もしないために(神官も戦士も誰一人として口を開く者はいなかったので)それらの音はやけに大きく耳に届いた。 自分の心臓の音だってそれくらい鳴り響いているんじゃないかしらとイコは思ったが、波打つ鼓動は己の内にのみあるのだとわかっていた。 村を出てどれ程たったろう。 いつ終わるかいつ果てるか知れない深い森を粛々と進んで、薄暗がりに慣れた目に、目映い光が飛び込んで。 やがて馬蹄が軟らかい土ではなく、硬い石畳を探り当て―― 湖の上に城が見えた。 ※ イコは特別な子どもだった。 体が弱く幼い頃に亡くなる者が多い村の中で、一度の病もしたことがないくらいとびきり頑丈だったし、村の子の誰と比べても腕力も強かった。 けれど、八つの頃まではまだ、少しばかり将来有望の子どもに過ぎなかった。 イコが本当に特別な子どもになったのは、その年に……村で彼ひとりにだけ、角が生えた時だ。 角が生えたから、イコは特別な子――イケニエだった。 古老たちは城主(しろぬし)様の御世代わりだと言って、イコを神殿に連れて行った。 霧の城の主を見た者などいなかったが、老人たちは気にもしなかった。 イコは生け贄になった。 村の子どもの内、彼だけは山羊の世話も畑の手伝いも、薪拾いもしなくてよくなった。村では働かない者を養うほどの余分はなかったがそれでも、朝起きて太陽が指ひとつ分昇る頃には薄く伸ばして焼いたパンが与えられたし、夜には野菜を煮たのに肉屑が入った皿が渡された。 イコは神殿で寝起きをし、神官とともに暮らした。 けれど、神官たちは彼をあるものとして扱わなかった。ないものとして振る舞った。たとえ、イコが祝詞をあげる神官長の髭を引っ張ったとしても(もちろんイコはそんないたずらをしたことなどなかったが)誰も咎めはしなかっただろう。角が生えた時点で、イコは村の者でも――この世のものでもなくなったのだった。 彼は己の立場をあるがままに受け止め、日々を暮らした。 角が頭に巻いた布では隠せないほど立派になって、そうして長がイコの両親の小さな家に入ってきた時に。 なぜかもう顔も思い出せない母親が一言も漏らさず泣き崩れた時に、 大きかった父親が肩を落として小さくなったのを見た時に。 彼は、村が彼の世界ではないことを知ってしまったから。 そうして、十三になった今日、城の主の元へ生け贄として送られたのだ。 ※ 城は広かった。 登りきると視界いっぱいに湖が広がって冷たい風が汗をかいた身体に心地よい。 岸は見えない。 正門は反対側なのだ。 遠ざかっている。 (どれくらい……) いつから歩き始めたのかわからなかったから、彼はどれ程時が経過したのか、それもわからない。 はたはたと風に肩布がなびいて、振り返った視線の先で少女の服も踊った。少しばかり強い風を気にするふうもなく回廊の塀に羽を休める鳩を珍しいもののように見ている。 城内の暗がりで見ると闇に溶けてしまいそうな彼女だったが、明るい日なたで見ると、今は光に透けるようだった。一瞬、本当に彼女が透けたように見えてイコは目を瞬いて視線をそらし、陽光いっぱいに反射(かえ)る中庭の角に下る道を見つけた。方向はまた城の内部へ向かっている。 不思議な城だ。幾重にも入り組んで、通る者の行く手を阻む。頑丈な体をいっぱいに使ってあちらこちらと仕掛けを手繰って越え進む内に、イコは奇妙なことに気づいた。 仕掛けはすべて内から外へつながっている。 これではまるで。 まるで、内側の者を外へ出すまいとしているような…… どこか己の内で警鐘が鳴り響いている。ちりちりと魂の底から何かを思い出すような感覚がある。ここは、古の魔女の城。主の姿を見た者もいない城。 村から送られた生け贄は二度と帰っては来なかった。 たぶん、彼も村へは帰らない。村は彼の世界ではない。 とはいえ、ここも彼の世界ではない。 けれど、近い。 そう感じる。 この城を抜けさえすれば――― 彼女を導くことができれば……。 すべてが解ける。そんな気がする。 「おーーーーい」 今は進もう。 この人の手を離さず。 2007.01.05 [ 戻 ] 同人誌『 ICO - walk hand in hand 』(2003)寄稿 |