高らかに告げよ


 禁を犯して時を渡った龍がいる。

 その事実は、ことの大きさゆえに時を置かず広く詳らかにされた。そして、その理由までもが!
 長らは罪を少数で負うことに疲れた(あるいは限界を悟らざるを得なかった)に違いなかった。
 だが、多数で分かち合ったにしてもあまりの重さによろめかない者はなかったろう。そうして彼女は、他の誰より身を震わせた。
 これが龍族滅びの端緒だ。我らは自らの仕業に因って滅亡の途を辿る!
 老いた身を駆けたのはなんだったろう。戦慄に近い、歓喜にも近い、感きわまった何かだった。
 何千余にも渡って世界を支えてきた彼らにも、終わりはあったのだ。
 ――短い。
 シェイラは今の今まで考えたこともない思念を覚える。長命ゆえに世代の交代が少ないのだ。隻眼の女神の時代まで遡っても、数えられる程度にしか代を重ねていないのだ。
 短かった。
 人ならばもう幾百たりと交代を繰り返したというのに!
(わたしたちの種族は幼いのだ)
 降って湧いた思念はあながち突飛とも思えない。
 そうだ、幾世代も重ね重ねた人どもとは違うのだ。
 いつか友が言ったではないか。龍は過ちを犯しなれていない、と。
 それはすなわち、正しさを取り戻す術にも疎いということに相違なかった。


  * * * * *


 ――もし龍の島から使いのあるようなら叩き出してくれようと思ってな

 冗談めかしておどけてみせたが地狼の目はひとつも笑っていなかった。
 では、そう、彼は私のためにだけ砂漠を越えて来てくれたのだ、シェイラはその尊い真実に全身を震わせる。
 いつか、いや、すぐにでも、迎えは来るかもしれない。
 先ほどまで年甲斐もなくおののいていた心は、けれど今ではしゃんと背筋を伸ばしたようだった。

 ――ありがとうヨール

 シェイラは鱗をさんざめかす。

 ――ありがとう

 もう一度繰り返して、地狼に龍の笑みを送る。

 ――長老からなんと問われようと私の答えは一つしかない
 ――過去は変わらぬ

 自分だけはその態度を翻すわけにはいかなかった。たとえ末に同胞の滅びが待っていようとも翻すわけにはいかなかった。

 ――そうではない答えをわたしたちは探さなければならないな

 言えば地狼はまるで狼そのものの仕草で風龍の前でくるりと回った。

 ――心配は要らぬと
 ――確かにたしかに!

 口の端に彼らしい力強さが宿る。

 ――風龍殿は大人におなりだ

 そんなもの言いには笑うしかない。
 千年余を眠りに過ごし、しばらく前に目を覚ましたばかりの彼にとれば、彼女がいまだととせを過ぎぬ雛に思えてしまうのだろう。
 地狼が今この時に立ち会わせたことに歓喜の念を覚えずにはいられない。彼にとれば迷惑至極の厚顔な態度であろうし、度し難く罪深きことと知りながら、何ものにも代えがたい喜びには違いなかった。

 だから、彼女はもう二度と過ちは犯さない。


  * * * * *


 老いた風龍は毅然と頭を上げた。
 それは、迷いない確固たる意志に基づいた動作だった。
「わたしは今一度、呪いをこの口にいたしましょう」
 周囲のざわめきも彼女を止めることはできなかった。
「水龍は滅びる」
 強い断言に、場の気が極限まで緊張に包まれる。
「過去は変えられません」
「過去ではない!」
 否定の声は龍らしからぬ悲鳴にも怒号にも取れた。
 風龍の若者のようだった。
 当の水龍たちは無言を己に強いたように、口を真一文字に閉じて事の成り行きを見守っている。
「いいえ、過去です。遠き先より訪れたという者にとれば、わたしたちは過去です」
 未来を教えてやろうか。
 かつて滅びにひた走る男に向かって、そう囁いたのは、彼女自身だ。
 彼女にとって望まぬ現実を変えるためにだけ、口にした言葉ではなかった。
 男のためでもあると信じていた。
 けれど彼女にとっては過去の、男にとっては未来の流れを、知っていたからといって何が変わったわけではなかった。
 むしろ。
「結果は変えられません」
 避けようとすればするほど、現実は醜く、非情になった。
 ついと、その長を見やる。
「変えようとしてどうなりましたか」
 沈黙はいよいよ深く、重く。
 幾人かが息を呑んだ。
 彼女自身の罪は遠い昔だが……ほんの少し、そう、長命の龍族にとってまだ昨日にも等しい直近で犯された罪がもうひとつ、ある。
 公にされることはなかったが、それも今回の事態によく似た事例の、過ちに満ちた罪。
 将来罪を犯すとされたものを世界から抹殺しようとして――
「あぁ、ああ、そうじゃ。変えようとして………われらはさらに悲劇を招いた」
 今はひとりを欠いた長らは切なく長い息を吐いた。
「それゆえの掟であったはずです」
 二度も繰り返された過ちに、龍は時を渡ることを己に禁じた。そのはずだった。
 だが、三世代を過ごすうちに、その罪悪は薄れてしまったのだ。(その頃にはわたしの罪も許されているというわけだ)と、彼女は悲しく面に出さぬままに述懐する。
 集会場はその人数にそぐわぬ静けさに落ちた。
「では、貴女は我らにそのまま滅びよとおっしゃるのか」
 とうとう耐え切れなくなった水龍のひとりが、それでも激昂することはなく静かに問うた。
 滅びをもたらす者を恨むことなく道を探そうと、彼らは総意をまとめたと聞いた。静けさと和を好むその属らしい尊い決意。
 だが。
「……受け入れることが肝要です」
 道を探してはならぬ。
 それが彼女の得た真理だ。
「我らだけの問題ではないのだぞ!」
 ざわめきが再び周囲に満ちる。
「時を遡りし風龍シェイラギーニ。そなたは何もするな、と。なるがままに任せるべきだと、そう言うのだな?」
 彼女がこの島に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。
 龍族すべての故郷とされているにもかかわらず、訪れたことはなかった。
 彼女は龍でありながら、人に育てられたようなものだったからだ。
 幼くして両親の元を離れ、人間の男と旅に暮らし――その果てで罪を犯した結果、彼女は同族から離れざるを得なかった。
 かつて三身に分かれたとき。
 再び一身を与えられたとき。
 多くの龍から注目を浴びたが、現し身でその視線に晒されるのは初めてだった。
 けれど、怯みはしなかった。
 龍だとて罪を犯す。彼女は誰よりもそれを知っている。
「世界が傾くのを甘受しろと、貴女が言うのか!」
 彼女は……龍より人に近しい己を知っている。
「いいえ」
 だから、龍としておかしい己をわかっている。
「未来より訪れた風龍は、すべてを知っているわけではないでしょう」
 彼女の基準は、あの、魔法使いでできている。
「わたしたちは彼の知らぬ真実を作らなくてはなりません」
 嘆かわしい同族同士の争いも、
 滅びに直面する水龍の絶望も、
「彼の知る時間より、さらに先に希望を持たなければなりません」
 避けられぬなら、裏をかくのだ。
「滅びは必然だ」
 彼女の眷属の天使族が衰え失われたように。
「わたしたちは備えなければならない」
 古の女神が龍族に世界を託し、立ち去ったように。
「我らだけの問題ではないのだから」
 風穴の広間は、一切の音を控えた。




H21.2.10


『乙女は龍を喚ぶ』から。……先生…、過去を変えたら、今までのご自身のシリーズの全否定ですよ。忘れないで…! [ ]