祝歌


 春までまだあとわずか届かない半島は、彩りに乏しく空も少し重く、侘しく見えた。
 覚悟は、してきたはずだった。
 若き守龍を迎え、再び徐々に魔法の力を与えられつつあるとはいえ(だからこそ、かの友人が覚醒を得るのだが)、その枯渇は長く――千年余に渡ったのだ。不毛の土地を、岩と土を、悲鳴すら上げられないだろう大地を、思い描いてきたはずだった。
 だが、やんぬるかな、記憶に留めるかつての様を、木々が生い茂り、まるで伏せた巨大な椀のようだったあの緑豊かな半島を、打ち消すことなどできていなかったらしい。
 目隠しのようにすべての感覚と感情を閉じて<そこ>に送られて、映ったすべてに打ちのめされた。

 あまりに広い景色だった。
 視界は邪魔するものなくどこまでも届き、乾いた大地はひび割れこそないがかさついて煤竹に褪せ、冷たい空風を遮るものとてない。
 すべては低く、空さえも低く、乏しい土地に縋りつくように。

 長い、長い、長すぎる沈黙のもたらした爪痕は、ここまで深い。
 もし、彼女が人であれば、ここでよろめくこともできただろう。
 くず折れて落涙することすら、できたかも知れない。
 だが、彼女は人ではなかった。
 そうして、これは彼女の罪だった。
 浅はかだった彼女の一言が多くの命を傷つけた、その証左だった。
 踏みとどまり、けれど暫時瞑目し、そうして威儀を整えた。
 自分の存る内に呪いの払われることはないかも知れぬ、と直近では密かに恐れてもいたのだ。終わりなく続いてきた、何度となく倦み疲れた長寿の定めも、こうして、ここに立つことができた今は、やはり甘んじて受けねばならぬ罰のひとつであったに違いなかった。

 * * * * * *

 邂逅を果たし、いくら感謝してもしたりぬ、詫びても詫び切れぬ小さき者たちに友を返して、龍体に戻った彼女は魔法でその姿を隠しながら、半島を見渡した。
 今のこの場所と、かつてのあの場所は、ひどく、ひどく隔たってしまって、結びつけることがこの期に及んでできなかった。
 愚かな自分が激情のままに轟かせたあの忌まわしい声、滅び行く哀れな天使族の嘆きの声は、どれほど耳を澄ませようとすでに聞き取ることは叶わなかった。
「もう、よろしいのですか?」
 ふぅと息をついたそのときを待っていてくれたのだろう、若い水龍は遠慮がちに彼女の隣に顕現した。
「えぇ、私のような者の力をこの場に二度と及ぼされたくはないだろうに、我が儘をお聞き入れいただき、感謝しています」
 極力、己の気配を零さぬよう、そのため無礼を承知で守龍にこの地まで運んでもらったのだ。その意を汲んでくれたのか、大地は沈黙を保ち、風は彼女を慰めて遠慮がちに抜けていく。
「とんでもない。禁止の令は最早解かれたのです。誰に遠慮する必要もありません」
 罪を直接は知らぬ若きものの好意的な視線は、少し苦痛であり、同時に慰めでもある。
(すべては過ぎて)
 そう、もう千年もすれば、真に彼女の罪も許されるのかも知れなかった。
「ここは、あなたのもうひとつの故郷でもあるのでしょう」
 遠い先へと泳がせた思考は、断ち切られるように過去へ飛ぶ。


『わたしのうちは二つあるんだ。フウキの父様と母様のところと―――』


 ぐらり、と体が傾いだ。
 あの日、降りまいた花が視界を掠めた。
「風の御方!」
 あの、あの心を、どうして最後まで保てなかったのか!!
 ぐらぐらと揺れる心を、どうにかなだめて、それでもすべてが覚束なかった。
(ヨール)
 つい先ほど言葉を交わしたばかりの地狼の名を守りのように繰り返して。
(ヨール、ヨール)
 輝く日々は過去ばかりではない。
 わざと甘えを見せれば、昔のとおりに諭してくれた声を思い出す。
 輝く日々は、過去ばかりではない。
「年を」
 心配そうな眼差しを受け取れる程度には、齢を重ねてきたのだ。
「年を取るのは嫌なものです。あやうく空から落ちた龍と人に指さされるところでした」
 あの日、落ちさえしなければ。
 ――そんなことは、もう考えまい。
 茶化して言えば、水龍はやっと目を和ませて、その属に反したいらずらっぽい表情を浮かべた。
「あぁ、ええ、まぁ、どうです。人々に指さされてみるというのは」
 姿を晒すつもりは微塵もなかった彼女に、そんな言葉を与えた。
「私の国の民は、龍の姿を見慣れない者ばかり。どうぞ、もう、龍が当たり前の存在であることを見せてやってくださいませんか」
 眼下の大地。
 彼女の罪。
「…………わたしのような」
「あなただからこそ」
 率直な言葉は裏もなく、それゆえ、深くまで届いた。
(――そうか、わたしは、まだ逃げているのか)
 まっすぐな目をした石占の娘が脳裏をよぎる。
 彼女の罪を雪いだ占い師。
 己のせいで辛苦を託った者たちに、名乗れもせず、本当の姿も見せられなかった。
 非難されるべきであるのに、逃げた。
「……では。――では、我が儘ついでに」
 祈りたかった。
 何に、だろう。向ける先の見つけられぬまま、心は一心に祈っていた。
「歌を、言祝ぎを歌うことをお許しください」
 幼い頃、石になる病を抱えた女たちをただ心から祝福したように。
 呪いを吐いたこの汚れた口に許されるならば、
 歌を、
 鎮魂を、
 祝福を。

 貧しい国を負うことに喜びを湛えるこの国の若き守龍は、その顔いっぱいに――――



H19.12.06


『約束の地』を読んでいても立ってもいられず。もし、同人誌にするなら、この後に漫画で、歌を聴くヨールと、アルダ・ココたちを入れるんだろうな、みたいな感じです(笑)
ヨールに対して、他人行儀なシェイラが気になって仕方がない〜! [ ]