隠 者 の 訪 い
一歩踏み込んだその時より、彼はその国を好いていた。
土につけた足の裏から、彼の愛してやまぬ大地が喜びにあふれているのを感じたからだ。 昨日今日で作られた喜びではない。目もくらむほどの長い年月(ああ、きっと彼の生年よりなお)、言祝がれ慈しみを受けてきたに違いなかった。 進む四肢が自然弾みそうになるのを押さえるためにことさら意識を向けねばならぬほど、その土は力にあふれていた。 隣国も充分に豊かな国であったけれど、水気が多すぎるのは好みではない。 そして。 なにより、ここは心地よい風が吹いていた。 砂を巻き上げるような無粋な風ではない。 木々の葉をもぐような無様な風ではない。 慈愛に満ち、祝福を隅々まで運ぶ風だ。 第一声をなんとするべきか、迷う心を払う風だ。 人でいうなら頬を緩ませて(あいにく彼は人ではなかったから微笑むことはできなかった)、真黒の鼻面を天に指し向く。 大気も地と同じく――否、守護する存在ゆえにそれ以上に――ほんの僅かの不足もない。 (問題はただ……気負いが過ぎるくらいなものだ) そうだ、かの存在はいつも守りたいものを守ることに一生懸命で。 慈愛も献身も幼い心身に収めきれぬほどであったのを今でも、千余年たった今でも、昨日のごとくに思い出せた。 懸命さのあまり、あふれた思いを押しとどめられなかった――行いは罪であっても、思いそれ自体は悪ではないと思いたかった。 なにもかも甘く、力にあふれている。 けれど、その中にかすかな悲哀が巧妙に隠されている気がしてならない。紛らわせるために、なおさら愛しまれているように思えてならない。 長らく見守ってきた主家を失った先代守龍の嘆きが残っているのか……なにをなしても、憂いの晴れぬ――当代の悲しみか。 前者であれかしと思いつつも、たぶん、こんなふうに感じるのは己だけに違いないことを彼は知っている。……そうであって欲しいと、どこかで思っているのかもしれない。あの時あの場にいて、あの二人を知っていたのは、もはや彼らしかいないのだから。 確かに呪いに相違ない、彼はかつて言われた言葉を思い出す。 悔恨と慙愧は根深くて、だが償おうにも相手はすでに塵となり遠い。 忌避され続けた半島に龍を再び呼び戻しはしたが、千年に渡り当然あるべき恵みを受けられなかった幾多のものらに贖うすべもない。 長すぎた、沈黙。 (我らは畏れすぎたのだ……) 癒えぬ傷などないものを。 過去は変えられぬものを。 過ちを犯しなれぬ龍は判断を誤ったのだ。不可侵の取り決めは哀れな半島から目をそらし、なかったこととしたも同然に、長き時をかけて、じわじわと傷を深くしたに過ぎない。龍の力で歪んだ土地とはいえ、息吹なければ遠からず痩せてゆくのが偉大なる彼らにわからぬはずもないというのに! ひとつの愚行からさらに紡がれた悲劇の数々を、白紙に戻すすべは誰も持たない。 (私に、防げただろうか) すべての発端たる幼き龍の恋心を無慈悲に想い人に伝えれば、事態はなにか変わったろうか。 すべてが丸く収まったとでも? (………なにも変わらぬ) あの時点ですら、かの龍は必死にこらえていたのだ。間違えているのは己なのだと、愛する人間たちを悲しませまいと、別の幸せ(正しい龍と人のかかわり合いの形のうちでもっとも最良の!)を得るのだと、心を戦わせていたのだから。 (…私たちは負けてしまったな……) 彼女が勝ってくれればよかったと思う。それだけは今も思う。 今では彼にも多くの友がいるが、初めの友のその末を、不確かな記録という方法でしか(それとて相手がたまたま優秀! だったから残ったに過ぎない)知らないのだ。 何を思い、どんな最期を迎えたのか、残された手がかりから知るしかないのだ。 だが。 ――彼ら二人が償うべき相手からならば、きっと許しは与えられている。犯した罪は消えぬまでも、許しは与えられている。それは、確かだ。それだけは過つまいと、心深く留めている。 半島の千年の甘苦は……… (あれは我らの罪ではあるまいよ) 同胞の過ちを受け入られなかった龍たちに(も、というべきだったが)ある。 もし、彼女が悲しみに沈んだ瞳をしていたらこう言ってやろう 開き直りとさえ言えぬ態度ではあるけれど、きっと笑ってくれるだろう。あの魔法使いの真似をしてみてもいいかもしれない。 きっと、笑ってくれるだろう。 幼かった龍も今では大人のずるさを手に入れているだろうから。 涼やかな鈴の音を夢想しながら、地狼は大地をゆっくりと歩む。 H17.07.12
「龍の島」を読んで書かずにはおれませんでした。
………前々から思ってたけど、結局龍の長老って……慎重すぎて逆効果になってなかろうか(笑)不遜だけれど、ヨールの旦那に代弁依頼。ちゅうか、ヨール! 頼むから最後にはシェイラに会いに行ってね……という、フライング夢話でした! |