午 睡 の 森

 制止の声、どころか留める力すら振りきって、その閉鎖された森へ九度目の侵入を果たした老人は、ぽかりと木立の引いた緑の広場に友の姿を認めて、歓喜と落胆の両方を覚えた顔をした。古い友人に会えた喜びと、未だ彼が縛られている悲しさが同時に襲ったためだった。
 もっとも悲しみはすぐに胸の奥へとしまわれ、老人はそうとも思えぬ程確かな足取りで友の傍らへ進む。
 この頃になると森の番人も、懲りない老人に(かつては若者だった頃からの侵入者だ)あきらめて、元の仕事へ戻っていく。ふてぶてしいとも言える行動ではあったが、森が閉ざされているのは友人を守るためであって、自分を拒むものではないし、第一、閉ざした本人が知れば、すぐにでも通すだろうことがわかるからだ。
 長旅に少しくたびれたマント、旅向きな軽装、そして歩行を助けるため、ではない杖。元は黒髪であったことが伺い知れる薄くなったごま塩頭に顔のしわは深く刻まれ、瞳に浮かぶのは長く生きてきた者だけが宿しうる英知の光だ。しかし、それに限りない楽しさを踊らせて、老人は――今は石くれとして眠る狼に手を差し伸べる。

 森は午後の光を受けて緑に煌めき、葉々の合間からこぼれる陽光が動かぬ岩を暖めていた。

「旦那、とうとう苔が生えちまったな」
 あれからの長いながい年月を証明するように、石狼の体は草に埋もれ、ところどころ薄く苔が生えている。木漏れ日に苔は燃えるように緑に輝き、それはいかにもかつての彼の毛皮らしくも見えたから、老人は生えるに任せることにする。似合うと言ったら、地狼はなんと返すだろう?と愉快に考えて。
 やがて、柔らかな草に座り込み、とりとめもなく老人は語る。
 前に訪れた折から今まであったことを、時に面白可笑しく、時にもの静かに、あたかも本当に聞く者が傍らにいるように。
 それは普段の様子からすると随分と感傷的に過ぎる姿だったが、しかし誰も目にする者はいないのだ。
 ただ、老人の声だけが枝ずれ葉ずれの音に乗る。
 妻を亡くした話。玄孫が生まれた話。かの偉大な存在が眠りから覚めた話。
 いくつもの物語を伝えるために、じょじょに弱っていく足腰を励ましながら、遠く離れたこの半島まで訪れて九度目。決して楽ではないこの定期的な訪問を取り止めにしないのは、眠る狼が老人の大切な者ふたりの恩人であり、そうしてまた得難い友であったからだ。
 独特の六角柱の石を両手で弄びながら、今では遠く隔たった時を思う。もう――もう、尋常な人の生を三つ分ほど過ぎている。
 きっと、これが最後。
 再び見えられないのはひどく残念だ。
「なぁ……できれば、さ」
 いつの間にかしわがれた声を、それでもできるかぎりかつてのものに近づけて
「あいつがいる内に起きてやってくれよ」
 呟きは、切ない。
 残されていく、ものを思って、やるせない。


 けれど。
 何十年か何百年か、あるいは千年後に。
 ひょっこり彼が彼女の元を訪れてくれたら。
 遅れて届いた思いがけない贈り物のように、どれだけ悲しみを癒してくれるだろう、とその喜びは老人の胸の内から消えはしなかった。夜の頂に輝く燦然とした星のように。広く草原を涼やかに進む風のように、心に宿り続けた。


 今はただ、うららかに午後が過ぎゆくばかりでも。

 

H15.05.27


昔っから一度書いてみたかった『龍と魔法使い』です!でも、あの作者さんは読者に嬉しい外伝も多産してくれる人なのであまり同人の出る幕はないんですけどね(笑)
それでも何でも『緑のアルダ』を読んで、この場面を妄想しなかったファンはいないに違いない!! というわけで、これは密かにこっそり、日めくり更新当番で大活躍だった某幸姉さんに贈り物であります。…………お、怒らないで、タギファンっ(脱兎)

※『龍と魔法使い』榎木洋子(集英社)より

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