*** 今はまだ(6.右腕)
うっかり扉で指を詰めた。
痛みの次に浮かんだのは、(めんどくさい)――だった。
目撃者がいなかったのは幸いだ。じくじくと地味に後を引く疼痛は数時間後の状態をありありと伝えてきてはいたが(幸か不幸かすっかり怪我には慣れてしまって、これくらいならどれくらい、とおおよその予測くらいはできるようになっていた)だからこそあと二時限、下校して自宅の玄関を潜るまでは保つ、と読んで、なんでもないふりを決め込むことにした。
――のだが、中指が使えないのはなんとも不便だ、と次の授業にも気づかされた。
なにせ鉛筆ひとつ握れない。
普段からそう真面目にノートを取るわけではなかったが、指示された箇所にマーカーくらいは入れるのだ。人さし指と親指でつまむにしたって支えがない。幾度か挑戦して、何本かへろへろの線を引くには引いたが四苦八苦している間に話題は次へ移ってしまう。といくらもせずに判明したので、それくらいならただ清聴する方がマシだと、教科書に線を引くことすら止めてしまった。
指一本、突き指した程度どうとでも、とはなんとも浅慮だったらしい。まったくダメツナはいつまでたっても駄目だなんて自嘲はさておき、あとはもう、今の席順が教室の後ろであることに感謝かんしゃだ。時おり抜き打ち的に(そんな意図はきっと絶対ないだろうけれど)振り向けられる視線から、隠し通せればそれでいい。
(オレは、君には少し意地悪だ)
ついでに、我がままで甘えている。
それを、相手のせいだと、責任を転嫁できる程度には。
だから、これは、ナイショ。
* * * * *
予測はだいたい正しくて、帰宅時点での中指の腫れは一.五倍、じんわりとした熱で人さし指と薬指がひんやりとした。
「おまえはまったくバカだな」
左手でぶきっちょに湿布を貼るのをもちろん手伝うでもなく、家庭教師はでっかいため息をくれた。
「オレはいまさらこんな基本から諭してやらないといけないのか?」
「うるさいな、うっかりしたんだよ!」
用務員室の重い引き戸は込めた力以上に勢いがつきやすいのを、失念していたのだ。
厄介な裏家業に巻き込まれる前から、これくらいの怪我は日常茶飯事だった。一晩冷やしておきさえすれば、明日の朝には気にならなくなる程度。右手が使えない不便も、自分の武器が拳であることも、幼児に改められることではない。歯を剥いて威嚇したって、ちょっぴり背の伸びた小粋な殺し屋にはなんの痛痒にもならないことも先刻承知。
これはつまり、これ以上は突っ込んでくれるなというささやかな白旗だ。先生は、もちろんものすごく嫌な顔(福々しいキュー○ー顔も、最近はもうちょっと人間らしくなっている)で、ますます呆れたようだった。
「……なぁ、ダメツナ」
そのくせ、言い聞かせる声音はいつもよりずっとやさしかったものだから、ダメツナ言うな、との決まり文句も返せない。
「まさか、気づかれてないだなんて――…」
そのうえ、途中で口をつぐんだりするから。
胸に起こった罪悪感は、口から飛び出す寸前だ。
「っ、わかってるってば!」
甘えた我がままだって、そんな自覚はずいぶん前に済ませてあるのだ。
与えるばかりで、受け取ることを固辞している。そんな一方的な安寧を許してくれているのを良いことに、多くの我慢を強いている。
けれど。
(オレの右手は、オレの腕一本で良いんだよ)
――今は、まだ、もう少し。