*** 何かほしいものはありませんか(14.9/9)
彼の奇行にもずい分慣れたと思っていた。
なんとなく程度には突拍子もない言動の起承転結の起と結くらいはわかるような気がして(どういう転回を辿ればその結末になるのかは、やっぱり推測不能だ)ははん、あれが原因だなとか思い当たることもあるのだが、今朝のところはどうにもこうにもさっぱりだ。
登校途上、顔を合わせるなり朝の挨拶より先に足元に蹲れて(ビアンキがついてきてたのかとか一瞬思った)どうしたの、と問う暇もなく手をとられ、気づいたときには甲に口付けられていた。
「んなっ」
脊髄反射で手を引いたのに、目に焼きついた光景がしっかりと触感を記憶に刻み込んで、あわあわと意味もなく手を右に左に踊らせる。
「な、な、な」
なに! と問いたかったのに、低い位置から見上げてくる碧の瞳が朝日をのんで透けて、舌が止まる。どこかで見たことがあるのに思い出せなくて、もどかしい。
「おはようございます、10代目!」
自分の中の答えを探しているうちに彼は重さを感じさせない動きで立ち上がり、いつもの位置に収まってしまった。
にこにこして、なんにもなかったみたいに「今日もいい天気ですね」なんてどうでもいいことを口にしている。
何かを流された、明らかにそうだったけれど、踏み込むには勇気が足りない。
きっと何か大きなことだ、そんなもの自分には受け取る用意はないだろう。誤魔化してくれたのなら、黙って乗っておくべきだ……。
ダメツナらしく妥協して、けれど、凍った舌は未だ戻らなかったから、うんと頷きだけ返して、ようやく答えを探り当てる。
――そうだ、あれは夏山の森が影を落とした淵の色。
* * * * *
山本はすごい、と何度目かもわからない感嘆が胸に落ちる。
「な、昨日誕生日だったんだろ、おめっとうさん!」
どこからそんな情報を入手したんだろう。そんなことちっとも知らなかった。(知ろうともしてなかったけれど!)
せめて続けて祝いを述べようとしたのに、その寸前、当人が口にした返答は「別に」、だった。嫌そうでも、嬉しそうでもない、能面みたいな顔で。
「一日は一日だろ。めでたくもねぇ」
歳は毎日取るもんだ、なんて。
(……ねぇ、それ、オレの誕生日の時にも言う?)
言わないよね、と反語で思考を泳がせて、何の意地かは不明だが。
「獄寺君。おめでとう!」
逆らって言祝いでみせると目を白黒させたから、なんだか妙に満足した。満足したついでに追い打ちをかけたのは、ダメツナとしては成功だったのか自滅だったのか。何かほしいものある? と問えば、滅相もない勿体ないお気持ちだけで! なんてものすごく一生懸命拒否られて、意外と負けず嫌いの自分を発見する。
さらりと無視して(ちっとも話を聞かない連中に始終囲まれればこれくらいはできるようになる)「じゃー、何かしてほしいこととか」にこにこ笑って(これも最近会得した技だ。特定の相手にはてきめんに効果を発揮する)一日遅れで申し訳ないけど、と畳み掛ければ、目を泳がせたから、彼もやっぱり人の子なのだ。ちょっと安心する。
きっとものすごい葛藤があるんだろう。これはなんとなく想像がつく。逡巡は恐ろしく長かった。
強引なようでいて普段おれに何を望むこともない彼だ。ちゃんと、してほしいことを思いつけたら、叶えてあげよう、そうしてあげたい。
人に対してそんな風に感じたのは初めてかもしれない。笑顔を保持したまま結論を待つ。
「で、で、……っ、では! じゅーだいめ、何かオレにさせたいことはありませんか!」
――と、返ってきたのには呆れたけど。
* * * * *
何かがおかしい。と強く思うが、向かい合う相手はそんなこと露ほどにも感じないらしい。これ以上の幸せはないみたいな――崩れきった喜色満面だ。
幾分傾いた陽光は西側の窓からさんさんと強い残暑を主張するのに、惜しげなく入れられた冷房が暑さをそれとは知らせず、飲み物を入れたグラスだってしっかり汗をかいていたけれど、半分以上減った今でも氷は解けずに残っている。取り立ててなんでもない日常といえば、そのとおりなのだけれど。
(落ち着かない……)
いつも以上に向かいに座った人物のテンションが高すぎる。
いくらなんでも、ここまで穴が開くほど見られたことはない……はずだ。
口に入れたフォークを行儀悪く舐って、手のひらに汗をかいていることに気づく。部屋はこんなに涼しいのに! おいしいだろうはずのケーキも味わう余裕がない。
こんなはずじゃなかったが、先に言質を与えたのは自分自身で。叶えてやりたいと思ったのも嘘じゃない。嘘じゃなかったが逃げ出したい気分だ。
宿題を教えてもらって、おやつをおごってもらって(ほら、絶対に変だ)。
普段とちっとも変わらない放課後。
(なにがそんなにうれしいの)
山本に言われたときはあんなにつまらなさそうにしていたくせに!
疑問はあともう一押し、なにかきっかけさえあれば喉から飛び出しただろうけど。
これだけ喜んでいるところに水を差すのも忍びなくて――もったいない、と心の裏側で考えていたことには気づかなかった――据わりの悪さはクリームと一緒に、ちょっと無理やり飲み込んだ。