*** それだけは確か(13.10年後)
『十年後のあなたに宛てて手紙を書きましょう』
国語の教師はどうしてだか不自然なほどこやかな顔で、原稿用紙を配布した。ざら紙にガリ版刷のそれは無彩色に沈み、ため息を誘う。どうにもこうにも馬鹿馬鹿しくて、まともに書く気など起こらない。
ほんの一、二年前――小学校を卒業する少し前――二十歳の自分への手紙を書かされたばかりだ。何を書いたかはきれいに忘れたが(たぶんこのまま思い出さない方がいいようなことに違いない。なにせ自分のことなので。まさかロボットになれていますか、なんて書きはしなかった、はずだが)、それだって、六年先――当時は七年とちょっと先のことだった。
十年。
居候のちびが時折『どかん』とやるのが、十年だ。ころころしたのがすらりと伸びて、生意気な挨拶をしたりするようになるのが十年だ。
去年からこっち、わずか一年の間に何があったと思う。
その十倍なんて――これまでの人生の七割以上先の自分なんて予測不能だ。
そう思うのに、昼下がりの教室で途方に暮れているのは綱吉ばかり、ふざけんな、たりぃな、やってられるか! とか騒いで授業を台無しにしてくれないだろうかとちょっとだけ期待した人物は、意外にも真剣な様子で机に向かって書き付けていたりするから驚きだ。
お元気ですか、ちょっとはマシになりましたか、まさかマフィアになんてなってませんよね?!
思いつくのは、そのくらい。
人生の目標は、まっとうな職に就いて、かわいい子と結婚して(京子ちゃん、とか望むのは分不相応だってわかってる)、そこそこでいい。
この程度のこと、たとえダメツナにだって大それた望みじゃないはずなのに、ひどく非現実的に感じてしまうのは何故だろう!
正直、今は『今』で手一杯なのだ。
毎日まいにち、うちに帰れば怖ーい家庭教師がなんのかんのと手ぐすね引いて待っている。その回避策を放課後までに練り上げるのが、綱吉の目下の至上命題だ。
灰色の紙。
空白の方眼が、恨めしい。
ため息をこぼして現実逃避に外を見やれば、黒く陰った窓枠の向こうで綿雲がいかにも長閑に浮いている。
* * * * *
結局、枡目を埋められないまま授業が終わり、そっくりそのまま次回までの宿題となってしまった。薄い紙一枚重いはずもないのに、鞄がずっしりするのは気が滅入っているからだ。持ち帰って万が一にも黒いあかんぼうの目にふれないよう取り扱いには重々気を配らなくてはならなかった。見つかったが最後、何を書かされるかわかったもんじゃない。思わず出てくる何度目かのため息は肺の奥底からだ。
繰り返したそれのために右に従う人物が落ち着かなさ気にそわそわしているが、どう切り出したってなんとなく話のオチまで予測がつくからこのまま家まで逃げ切るつもり。
(右腕もマフィアもボンゴレも、もーたくさん!)
痛いのも怖いのも、悲しいことも大嫌いだ。
そういったいろいろから逃げ続けて出来上がったのが『ダメツナ』だったけれど、別に誰にも迷惑はかけてないだろ、と脳内で述懐した途端――教師に足蹴にされる感触が思い起こされて、駄目押しのため息がついて出た。
おずおずと声をかけられたのはその直後。
「あのぅ……」
たぶん、ものすごく我慢したんだろうと思う。いつもだったらなんやかんや騒ぎながら帰るのだ。押し黙って並んで歩くことなんてしない。それなのに今日は終了の鐘と同時に原稿用紙を鞄に突っ込んで、部活にすっ飛んでいく山本にだけは手を振って、それからあと一言だって発していない。彼のことだから(なにかごふきょうをかってしまったのだろうか)とか、ふつう中学生が使わないような単語を脳裏に浮かべているに違いなかった。
けれど、聞きたくないのだ。どうしたって、聞きたくない。
彼に対して劣等感を感じたりしないけれど(なんたって、あんまりにも素地が違いすぎる。劣っているどころの騒ぎじゃあない。月とすっぽん、ぴんときり、何を比べたって負けるだろう。それでもあえて無理やりにでも勝てる部分をあげるとしたら小市民的一般常識、てなくらいのもんだった)、真っ白への恐怖をきっと微塵も感じないだろう相手から、理解と共感を得られるはずもない。
ため息の理由は誤魔化す方向で決意する。愛想笑いに苦労したことなんてない。頬の筋肉は慣れた指示に従順だった。
「……どうかした?」
「お困り事でしたら、どうぞオレにご相談ください!」
きっとかならずお助けします、と向けられた表情は怖いくらいに真剣だ。
「うん、ありがとう。でも、別になんにもないよ?」
白々しいのは百も承知だ。それでも、たぶんきっと彼は責めない。……ごまかされてもくれないかもしれないが。
案の定、秀麗な顔が目に見えて消沈した。
「オレにはお手伝いできないことですか?」
(そうだろうね、君には絶対助けられないだろうね!)
曖昧な笑みの裏側で、まるで八つ当たりの思考を遊ばせる。(そうだ、彼とつるむようになってから自分は案外、人が悪いことに気づかされた。それもこれも相手が無垢無心に過ぎるからだ。純真なマフィアってのもどうなんだろう!)
「だから、別になんも困ってないよー」
言ってもいいなら、少し前から既成事実化されつつある肩書きをなかったことにしてほしい、それに尽きる。
(……ほら、君にはなにもできないよ)
こうやってとりあえずでも笑っていれば、そのうちに彼は引き下がって、そうしてうやむやになる。こんなの、なにもかもただ先送るだけの怠惰の末の悪手ということだって、心の底から自覚済みだったけれど。
放課後の通学路は、なにかの間隙の落ち込んだようにひと気がない。変哲ない住宅街の狭い通りが妙にしんとして、まるで聞き耳を立てているようだ。心の裏側までも探られそうな真摯な視線と押し迫る静寂に、暴かれたくもない情けなさが露呈しそうで、ぽろりと、本当についうっかり(さすがダメツナ!)「ちょっと宿題がめんどくさいなーなんて思ってるくらいだよ!」なんて、だんまりを決め込むはずだった真相を取りこぼす。
あ、と思ってももう遅い。溢してしまったものは取り戻せない。慌てた挙げ句「獄寺君はもう提出終わったよね、なんか一生懸命書いてたもんね!」と続けてしまったのも大失敗。あんまりな自分に涙が出そうだ。俯いて深呼吸を一つ、衝動を吐き出した頭の上に「オレは出しませんよ」と感情のない声が落ちた。
前後の脈絡とその声音がつながらなくて、目じりににじんだ涙も忘れて振り仰ぐと、また声とも違う苦り走ったあまり見ない面(かお)だった。
「どうして」
驚きのあまりまるでお揃いの感情のない声になる。
(きみは、だって、いっしょうけんめいかいてたじゃないか)
迷うことなど何もないように。
怖いものなど何もなさそうに。
(……あぁ、そうか、本当にどうしようもない八つ当たりだった!)
混乱の隅でそれはもう自己嫌悪に陥ったけれど、彼は気づいた様子もなく、ゆっくりと見慣れた表情(かたち)に顔をゆがめた。
「当たり前です。なんだって教師なんかにあなたへの手紙を見せてやらなきゃならないんです」
間を置かず理由を開示されても、わけがわからなくなった思考は置いてきぼりの一昨昨日(さきおととい)だ。
「うっかり、課題だなんて忘れたオレがばかでした!」
「へ」
瞬きを二度三度。脳はまだ理解に至らない。
「作文させたいなら、もっとマシな題があんだろっての」
これだから教師ってのはろくでもねぇとかなんとか。思い出したら腹が立ってきたらしい止めどない文句が右から左に流れて、それからようやく言葉が意味を連れてきた。
「獄寺くん、あれは『自分宛』に書くんだよ……?」
口汚く大人を罵っていた声がぴたりと止んで、三十秒。白い肌が茹でたタコに変わるのを、すっかり(現金だと、我ながら思う)すっかり可笑しい気分で眺める。
「あの、……、え、……ああああー!」
ついでに、初めてだろう学業的優位を噛みしめる。自分にとっては母語で、彼には習得語だなんてことはこの際もちろん棚の上だ。
そうして、机にかじりつくようだった真摯な後ろ姿を思い出す。
さっきまでどうしようもなく焦燥を煽ったそれが、くすぐったくて仕方がない。
「まぁ、自分宛だとしてもなんだって先生に見せてやらなきゃいけないんだよってのはオレも思うけどね!」
だから、固まってしまった背中を、勇気を出して、二度ほど叩いて慰めて、綱吉は笑った。
少なくとも今この瞬間の彼は、十年後のオレのものだ、と心底愉快に考えて、そっと心の奥底に置いた。