*** さきしるべ(11.先生)
「そっこのかわいいお嬢さん〜、おじさんとちょっと飲みに行こうよー」
並盛で聞くはずもない声が耳に届いて、思わず足が止まりかけた。日本語の発声は初めて聞いたが、含む響きを取り違えるはずもない。
まだ彼此(ひし)には隔たりがある。気づかなかったことにできない距離ではない。可能なら知らぬふりを通したい。なにせあんまり古馴染みすぎる。
……が。
自分の今の立場と男の裏業を思えば、看過するなどありえない話。そういう相手だ。
ため息をひとつ、それだけを己に許して隼人は雑踏で歩みを止めた。
* * * * *
「せっかくやっとかわいこちゃんを見つけたってのにいいとこで邪魔しやがって」
日の落ちた小さな繁華街の路地裏で、男はおとなげない不満を隠すことなくふてくされた。数年ぶりの空白も何も存在しないようだった。
「何がいいとこだ、思いっきり引かれてたじゃねぇか」
だらしないナンパに割り込むなんて真似、したくてしたわけじゃねぇ己の身ひとつの頃なら絶対見なかったことにしたのに!
憤懣は胃袋に吹き荒れたが、当り散らして終わるわけにはいかないのが辛いところだ。不愉快を堪えて声をかけたのだ。収穫がなければ甲斐もない。呆れた内にも懐かしみを込めて世間話でもするように――隼人は努めて己に言い聞かせる。
「あんた相変わらずだな…」
必要以上に呆れがにじんだのは御愛嬌だ。けれど、男は痛痒も感じないらしい、ふんぞり返って得意げでさえある。
「当ったりめぇだ、世界中どこでも女性は美しい!」
数十人いる妹はどうした、と聞いてやろうかと思ったが、墓穴にも近い。慌てて別のことを口にする。
「こんなとこでまで女漁りかよ」
いつ、どうして、なんのために日本に――並盛に? 本当に聞きたいのはこれだけだ。まさか一流の、それも自力に依って立つ殺し屋がうっかり口を滑らせるはずもなかったが、片鱗でも嗅ぎ取れればしめたものだ。
男はへらへらとしまりのない顔で「スモーキンボム」と隼人を呼んだ。
最後に会ったのは、実家の城で。まだ、隼人が『坊ちゃま』などと呼ばれていた頃。十になる前に飛び出したことも、チンピラ同然に鉄砲玉のようなことばかりして過ごしてきたことも、この男が知っているはずが――
「こんなチンケな田舎のボウズに本気でボンゴレが継げると思ってんのか」
かすかに届いていた表通りの喧騒も意識の外に吹き飛んだ。
(釣られたのはオレか!)
「ッ」
懐に走らせた手は得物にかすりもしないうちに、ひねり上げられた。
「たった四分の一混ざった血で取り込もうなんて安い腹か」
男は変わらず口の端を緩めたまま、目ばかりは玄々(くろぐろ)と隼人を嗤う。
「!!! ざけんなッ!」
抜けない腕を軸に足を振り上げるが、あっさりと手放されて地に落ちる。跳ね起きる前に大きな黒い革靴が隼人の肩を踏み押さえた。
「おまえに発破を教えたのはだれだ? なぁ、坊ちゃま?」
「うるせぇ、訂正しろ! 10代目はそんな浅いお方じゃねぇ!」
「あ?」
「あの人がいるところが世界の中心で、あの人の前じゃ血の色なんざ意味もない」
隼人の知っていた世界とは、遠い場所に生きる人だ。野心ばかりを明々と燃やしてきた隼人の心をやすやすと消し止めた人だ。今、隼人の胸にあるのは新しい、まったく別のなにかだった。
はるか頭上で男が驚いたように目を瞬く。
「なんでぇ、隼人。おまえさん、案外ほんとのほんとに本気なのか」
足を外して、長い体を折りたたみ、無様に転がる隼人を覗いた。目はもう元のとおり、いつも見知っていた眠そうな目だ。
「ふぅん、そりゃあ、悪いことしたな」
ちっともそんなふうに思っていない顔で軽薄そうに頭をかいた。いやな予感がじわじわと差し込む。
「オレぁ、ボンゴレに呼ばれてきたんだ」
ちょうど、ちょっと本土でしくじって居づらいのもあってな――始めに聞きたいと思っていた男の訪日理由を、どうでもいい! と遮りそうになるのを懸命に堪える。
男は、殺し屋。だがそれと、同時に――
「不治の病の患者がいるから診てやってほしい、ってな」
胸倉に伸ばした手は今度も綽と避けられる。
「10代目を、どうした、シャマル……!」
「知ってんだろ、オレは男は診ない」
最後まで聞かずに駆け出したから、当然、見送る男の顔も見なかった。
* * * * *
息せき切って駆けつけたお屋敷は、けれど騒ぎのひとつもなく、いつもどおりの様相で住宅街の宵闇に佇んでいた。主の部屋の灯りは落ちていたが、居間には暖かな光があった。
みっともなく上がった呼気を隼人は懸命に抑える。スケコマシの藪医者にからかわれたに違いなかった。
ああ、ああ、この際、己の未熟の反省は後回しだ。今はかの人に何事もないのであればそれが最上だった。
まだ深夜というほどの時間ではない。しかし、呼び鈴を鳴らすには非常識という頃合い。お姿を見ることはかなわずとも、せめて声なり漏れ聞こえてこぬものか、きゅうきゅうに搾られた後の心臓は確かな安堵を求めて足をその場に縫い止めて、逡巡を一回り二回りするうち――
「獄寺」
気配もなくまるで宙から現れたように小さな赤ん坊が門塀の上に立っていた。
「何か用か?」
赤ん坊にはずいぶん遅い時間だ。たぶん普段の彼なら眠っている頃だろう。やはり何もなかったわけではないのだ、隼人は異変の残りかすを見る。
終わったこと、けれど、まだなにか始末が残っている……。
門灯の頼りない明かりでは赤ん坊の黒い瞳にやすやす飲まれて消えてしまう。小さなヒットマンの表情はいつも以上に淡白で、一端は落ち着いたはずの鼓動が跳ねた。
「街でトライデント・シャマルを見かけたので」
目的を探ろうと接触して、良い様にあしらわれた結果を――報告する勇気は出なかった。不明瞭に言葉尻を濁した隼人を、赤ん坊は笑ったようにもため息をついたようにも見えた。
「シャマルはオレが呼んだんだぞ」
「ではやはり10代目に何か……?」
最強の家庭教師相手に生徒の無事を問うのは不敬だろう。そわそわと落ち着かない心持ちはつま先だけに宿らせて、二階の窓を見やった隼人に、赤ん坊は今度こそはっきりと愉快げに口を歪めた。
「それは明日学校でツナに聞くといい」
つまり今日中の面会は叶わないということだ。
「中坊がこんな時間にうろついてるのは感心しねぇな、獄寺」
しくしく痛む胃を抱えたままねぐらへ帰らねばならぬ消沈が、上の指示は絶対の常識を曇らせて隼人の口を滑らせた。
「リボーンさん、それなんですがオレはどうして学校なんぞ行かなきゃなんねーんですか」
日本へ来て二月半。そのうち半分近くは夏期休暇だったとはいえ、いまだちっとも『学生』の身分に馴染めない。そもそも生まれてこの方、学校になんて行ったこともなかったのだ。くすぶっていた疑問を音にしてみれば、今の状況はますます奇妙に思えてならなかった。本島で異名までとった自分に、いまさら『中学生』もない……
隼人の無礼を、赤ん坊は咎めなかった。ただ、答えを与えもしなかった。
「わからないうちは、ツナと一緒に学校へ通え」
塀から猫のごとくしなやかに下りて、振り返ることなく玄関に消え、間を置かず居間の灯も落ちた。
未練たらしく粘ったが、月が沈んで夜半間近になっても階上の窓はこそとも音を立てなかった。
13/9/10 [
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今年は始業式の一週間後がちょうど9/9で、シャマルの回なんです。そんなわけのこんな獄誕…
獄寺君は自分の誕生日のことなんて綺麗さっぱり忘れています
→ 閑話および後日談(拍手掲載)もよろしければご笑覧ください