*** 気の長い話のための話
 
 
 ようやくと自室へ戻ってソファーに腰を落ち着けて、彼は大きく息をついた。
 朝からの祝辞応答、祝杯漬けに表情筋も肝臓もくたくただ。身内だけの内輪の会――とは言え、巨大組織のこと、傘下の協力ファミリーから末端の小部門まで含めると、うんざりするような規模になるのだ。
 私事ですのでどうぞおかまいなく、と断った暈(かさ)の外を加えていたらいったいどれほどになったやら、想像もつかない。
 なんだか年々、派手に大きくなっているのは気のせいか? 自問して、夏の始まる前、右腕と家宰が携えてきた企画書を万事ヨロシク任せるよと丸投げたのを思い出す。ちょうどややこしい案件に取りかかっていてまだずいぶんと先のおのれの誕生会のことなんてどうでもよかったのだ。ボスの意を受けたあのふたり――なんでだかそういう方向での結託は完璧の――が、たぶんきっと必要以上に張りきってくれたに違いなかった。
 間の悪いことに、どうしても外せない会合がかち合って(けれど、まさか主役が誕生会を欠席するわけにも行かず)右腕を代理で派遣せざるを得なかったのが、疲労を倍増させている。ごまかす術にはそこそこ長けたが、いまもって大勢の人と会うのは得手ではないのだ。にこやかな表情を保ちながら、誰だっけ、この人、と冷や汗をかくのはひどい精神負担だった。獄寺がいれば必要のない苦労だったのに。
 来年は地味に小さくこじんまりを主張しようと心に誓って、とうとうだらしなくずるずるとソファーに横倒れる。
 大きな布張りの長椅子はやわらかくもなくかたくもなく身を沈めやすく、彼のどちらかというと控えめな身長が余裕で収まるから、この無駄に広い部屋で一番のお気に入りスポットだ。
 深夜に近いいま、当然窓の向こうは真暗闇だが、日中はさんさんと陽が入って、冬でも暖かい(その分、夏は推して知るべしだったがいまはそれは忘れておく。なにせついこの間ようやく地獄のような夏は終わったのだからして!)(アフリカの風が吹いてくるぅと呻いて、天気図から海路図からちんぷんかんぷんの資料を机いっぱいに並べられて、残念ながら、と解釈されたが、頭にはちっとも残っていない)目を伏せて、数拍。
 かたり、と露台で小さな音が響いた。
 ドン・ボンゴレの居室の窓だ。しばらく前に当主が夜遊びへの逃走経路に使っていたことがバレて以降、アリの子一匹だって監視の目から逃れることは叶わぬはずなのに、どうしてどうして、いくつかの例外は残ったままなのだった。
 寝転んだ怠惰な格好から、申し訳程度に身を起こす。『例外』の候補なんて数えるほどしかない。疲れを隠す必要は感じなかった。
「だらしねぇぞ、ダメツナ」
 案の定、するりと夜から侵入を果たしたのは、つい昨日、彼より先に祝いの日を迎えた小さなかつての先生だ。
「窓から尋ねてくる客相手だからいいだろ」
 思い返せば会うのはひと月ぶり以上、けれど改まった挨拶なんてお互い今さら、彼と黒い子どもの距離はいつだって変わらない。
 腹ばいになって肘掛に顎を預けたボンゴレボスを――会うたびでかくなる成長期の!――元家庭教師は呆れた顔で見下ろした。
「おまえに招待状は届かなかった?」
 万にひとつもないことをぬけぬけと空っとぼけた元教え子に先生はにやりと口元をゆがめる。
「そうさな、招かれなかった恨みは深いぞ?」
「まさか! おまえが数に入ってないわけがない」
 そんな手抜かりをあの右腕がしでかすはずがないのだ。少年の冗談だと、彼は疑いもせず笑って済ませた。
「けど、今日はいいとして、昨日来ればよかったのに」
 重い身体を持ち上げて、椅子から立つ。やっぱり、先生はまたすこし大きくなったらしい。遠い昔にはヒザまでの、ああヘソまでと思ったら、はやアゴ下まで迫られている。抜き去られるまでもういくばくもなさそうだ。
「窓からじゃなくて、玄関からさ」
 レオンが大変だろ、と帽子の縁の緑色をそうっとなでる。働き者のけなげな殺し屋の相棒は、いたわりに鷹揚に目を細めた。
「なんで自分の誕生日にわざわざこんなとこに来なきゃなんねーんだ」
 ふん、と鼻を鳴らすのもごもっとも、だが、ちょっとは弟子の気持ちを汲んでくれたっていいのに、と思うのだ。
「だって、オレが会いにいけるわけないんだから、一日遅れちゃうだろ」
 立ったソファーを先生に譲り、そばの飾り棚から小箱を取り出す。それでもきっと今日には会えるだろうと希望八割の心持ちで用意していたプレゼントだ。
 つばに邪魔されない位置まで頭を落としてすっかり(黙っていればの注釈つきで)紅顔の、と言えそうな先生の視界に入る。
「リボーン、誕生日おめでとう」
 子どもはもう一度、ふんと鼻を鳴らしたが、さんきゅーだぞ、ときちんと答えるところは変わらない。
 受け取った箱の包装をエビでも向くようにつるっと剥いて(ぶきっちょの彼にはとうてい不可能な早業だった)、中身を身長の割りにしっかりした指につまんだ。
「ほう、おめーにしちゃいい趣味じゃねーか」
 つや消しの鈍(にび)色のタイピンはするどく尖った少年に、驚くほど違和感なくなじんだようだ。
 さすが、と彼が浮かべるか浮かべないかのうちに、真黒の瞳が三日月になって、どうせ獄寺の見立てだろ、と容赦なく暴いて笑う。
 御名答、と言葉にするまでもなく肩をすくめて肯定を返す。例年、イマイチ過ぎる選択を繰り返し続けて、いっそどう外してくるか楽しみだゾとまで言われた身だ。今年こそどうせなら喜んでくれるものを、と唸っていたら、見かねた右腕が助けてくれたのだった。
「ったく、あいつはどこまでおまえを甘やかしたら気が済むんだ」
「……それは、オレも空恐ろしく思ってマス……」
 一度許されるとずるずる易きに流れてしまう性分なのだ。春からこっち、自分のふぬけぶりと相まって、ちょっと危機感を覚えている。
 彼にとってすればそれなりに切実な返しを受けて、先生は自ら言い出しておきながら胸が焼けたような顔を見せた。
「せいぜい、共倒れの食い合いにならんようにするんだな」
 共依存、というのは、確かに望んではいないのだ。
「そこは長期計画で……還暦までにはなんとかしたいというところ」
「はっ」
 子どもらしからぬ鼻白み顔で耳が腐ると捨て置いて椅子を飛び降り、いつまでたとうと尊大な態度を崩さない先生は、どこから取り出したか大きな紙袋を放って寄越した。
 重心にいささかかたよりがあるらしいそれが過たず彼の腕に正確に落ちたのを確認することもなく、気を取られた彼がもう一度顔を上げたときにはもう背中しか見えなかった。
「今年のオレからの贈り物はデッカイぞ、ツナ。楽しみにしておけ」
「これは?」
「そいつは、ただの予告編だ」
「なんだよ、それ!」
 イヤな予感しかしねぇ、と叫ぶのを見送りの言葉に、先生は来たときと同様窓から闇に溶け込んだ。
 残されたのは、聞かなかったことにすれば、なかったことにならないかな、なんて無意味な思考に遊ぶドン・ボンゴレと重くはないのにずっしりする紙袋。
 先生の宿題はいつだってろくでもない。
 やれやれとため息をついて、壁の時計は二十三時と四十五分だ。
 右腕はまだ戻らない。
 長椅子にもう一度、腰をおろして紙袋はなるべく身体から離して置いて、あと十五分を数えるためにまぶたを落とす。


15/10/14 [ ]