春の野辺は陽光に映え、ぽつりぽつりと遠目に混ざる白い塊は新しい草をのんびりと食んでいる。
 黒い車はまっすぐと午(ひる)の緑の丘陵を進んだ。
 薄暗い車内には沈黙だけが漂っていて、薄い硝子一枚で外界とはすっかり切り離されているようだった。もうずいぶんと後ろに置いてきた腹の立つ事柄だけがずっしりと吐き出されることもなく留まり続けている。
 今日の会談はぎりぎりで、相手にうんと言わせたら勝ち、最後まで拒絶されたらお終い、交渉は決裂、皆殺しの殲滅戦突入が決まっていた。
 この場を設けるまでだって使える伝はすべてたどり根回しには万全を要した。対外的にも、内輪においても。
 皆殺しにしてしまう方がよっぽど容易で楽チンだ。
 進言はいく度も喉を登ったが、まさかオレが易きに流れるわけにはいかない。酒と一緒に、あるいは吐息とともに飲み込んだ。
 それを。
(その苦労を―――あのバカヤロウどもが!!)
 無に返ったいろいろが血を逆上らせたけれど、「残念です」とぽつりと落とされた平坦な声音に引き戻された。
 自分の苦労など何ほどのことではない。すべては主の望まれたこと、最善を尽くすのは当然、報われることも考慮の外だ。ご希望どおりの結果を導けなかったことをこそ、平身低頭お詫びしなければならなかった。
 自ら死刑執行にサインをしたと気づいてもいないバカどもは、感情をそぎ落とした主の言葉をどう取ったか、妥協しなかったおのれを誇って居丈高にこちらをあからさまに若輩と侮った態度で辞去の挨拶すら鼻で笑って流して見せた。
 今日が失敗に終わった以上、流血は不可避、何かまだ手を探されるかと思ったがこれが最後の機会だと何度もなんども確認したためか(10代目は本当に精一杯内部を抑えておられたのだ)戻る車に乗り込んでも10代目は何事も仰らなかった。
 ただ、面(おもて)に気鬱を、瞳に哀しみを湛えておられるばかり。そうして、それも館に着く頃には消してしまわれるのだろうと思うとお役に立てなかった不甲斐なさに面目もない。
 脳裏に浮かぶ言葉はどれも情けないいい訳、あるいは慰めにもならない繰言だ。
 ふたり座席に沈んだまま、しばらくは流れゆく景色だけが雄弁に春を歌った。
 交渉決裂の報はすでに両陣営に知れているだろう。戻れば返す刀で出撃になる。車窓の牧歌ぶりが、あまりに予感と乖離して現実から遠い。
 陰の濃いシートの下にはオレの狼狽だけがみっともなく転がっている。
「ドメニコ」
 不意に10代目が運転手を呼んだ。
「あの丘の麓でどうですか?」
「うん、お願い」
 短いやりとりのうちに車は静かに足を止める。
「10代目?」
 届かぬ光のせいか、主の顔色はいつもに増して白い。
「ご気分でも」
「ごはん! お弁当食べよう獄寺くん」
「は」
 さっと扉が開いて、眩(まばゆ)い直射と温められた草の香(か)を風が無遠慮に送り込んだ。
「どうぞ」
 ドメニコが訳知り顔で扉を押さえて下車を促す。
 突然に明るくなった視界に影はますます濃くて。
 10代目の表情を確認する間もなく外へ追いやられる。
「あー、いい天気だ」
 跳ねるように深い座席から脱して、主は両手を天に突き上げる。事態を飲み込めないでいるのはオレひとり、まごついているうちにいつの間にかずっしりと、風呂敷包みを手渡された。
「ごめん、あなたの分はあとで」
「いいえ、ボス、どうぞお気遣いなく」
 運転手と主とを交互に見やるがどちらもオレに事訳をしてくれるつもりはないらしい。10代目は振り返ることもなく道を外れて丘に踏み込んでいく。
「待ってください、10代目」
「あんまり離れるとドメニコが困るだろうから、あの石の辺で食べよう」
 薫風を一身に浴びた草原(くさはら)はくるぶしを超えて脛をくすぐる。整備されたわけでもない土の斜面はここかしこに小石が潜み、硬い革の靴底は不自由極まりなかったが、先を行く人は軽い足取りで鼻歌でも歌いそうに体を揺らして上っていく。
「朝、出かける前に山本が持たせてくれたんだよ」
「やまもと」
「そう!」
 陽差しは主の黒い背広にやわらかに降り注ぎ、明るい髪を光に変えた。
(そうか10代目は初めからわかっておられたのか)
 ……否、諦め、からもっとも離れたところにいる人だ。だから、きっと、あの黒は覚悟の黒。
「…――まさか鮨じゃないでしょうね?」
「まさか! この陽気でナマモノはないだろ」
 うろんげに風呂敷を(きっと中身は三段重ねの重箱だ。食い手はふたりしかいねぇっつのに!)伸ばした手の先でぶら下げて見せれば、ようやく振り返った10代目が歯を見せて笑った。
 もう光に慣れた目は翳(かげ)を見失いはしなかったけれど、同じように笑って返した。


13/12/30 [ ]