過去拍手履歴 022/2014.07.30-09.04



* * * * * 棺に納めたかったのは

 前触れのない呼び出しに、右腕はきれいな顔で応じた。近ごろはずっとそうだ。血が通っているとは思えないほど澄ました顔でオレの前に立つ。笑って見えても、それは玻璃の向こうのことだった。
「もういいよ、無理にオレに合わせなくたって」
 意味をとり損ねて瞬いた碧が、ずいぶんと久しぶりにオレを捉えた。
「忠誠の誓いなんて忘れていい。……先に君を放り出したのはオレだ」
 彼が真相に気づくことがないように、とずっと祈ってきたけれど、広がっていく一方の虚像と実体の乖離に疲れていたのも本当。
 いったんはすべてを投げ打つ、策ともいえないてんでデタラメな綱渡りをいい機会だ、と思ったのも事実。
「あなたは、オレが」
 決まりきった言葉を流すだけだった音声テープにようやく雑音が混ざって、面からは表情といえるものが消えた。
「オレにはあなただけだと知っていて――」
「わかってたよ」
 ボンゴレ十代目で世界を回している右腕のことはいつだって心にかかっていた。入江と話していても、雲雀と話していても。夜半、ひとりになった時にも。
 自分がいなくなったら、彼はどうするだろう、と何度も思考の合間合間に差し挟んで考えた。
「だけど、もう、君の理由になるのはやめることにした」
 結論はいつも、問題ない、だった。
「オレがいなくたって君はパオロのコーヒーが好きだし、ランボは心配だろうし、山本が気になって仕方がないんだ」
 確かに『十代目』は彼の行動理念の大きな部分を占めていたけれど、全部ではなかった。……誰が認めなくても、彼自身が否定しようと、確かな空地がそこにはあった。
「君はもうオレがいなくたって世界と繋がっていける」
 実際、そうだったろう――とは言わなかった。いくらなんでもそれは無遠慮に過ぎた。悼んでくれただろう彼を哂うのが目的ではないのだ。
 ……たとえそれが、虚構の張りぼてに対する愛惜であっても。
「そのうえで。オレは嫌なんだ。君が君の好きなものを見ないふりをしているのが。オレだけが唯一だなんて嘘は聞きたくない」
 音にすると、なんて醜い言葉だろう! もうずっと大事にしてきてくれた大切な人のやさしい心を踏みにじる言葉だ。手前勝手の、厚顔無恥、傲岸不遜もいいところ。
 それでも、止めはしなかった。
 終わりにするには、剥きだしの浅ましさを曝す必要があった。
「好きなものの中からオレを選んでほしいんだ。他の何を捨ててでも」
 ……ウソだ、そんなことは選ばせたくない。『自分自身』にそんな価値などないことを、誰よりおのれが知っている。自分が今、ろくでもない表情をしているだろうことは鏡がなくたって疑いない。
 獄寺が凍った面の裏で懸命に意図を汲もうと思考を巡らせているのが見てとれた。蝋人形が生きた人間になった、ように。
「あなたはオレを選んではくれないのに?」
「そうだよ。君が本当にはオレのことなんか好きじゃなくたってね」
 自失して紙のようだった顔色にとうとう険と言えるべきものが浮かんだ。
 それは心外さに憤慨したとも、暴露に狼狽したとも取れた。
 薄っぺらい敬愛や尊敬――否、さすがにそれは不当な評価だ。彼のボンゴレ十代目に対する尊崇の念は筋金入りの確かさであることは認めてやらなければ、確かなものなどこの世界から消えて失せる。
 だが、欲しいものはそんなものではなかった。
 もっと身の丈にあったささやかなものでよかった。
 ボンゴレ十代目の皮をかぶっているだけの『中身』へのものであれば、たとえため息混じりでもかまわなかった。たとえばダメツナ! なんていう悪態でも。
 けれど、そんなもの、望むべくもない。七光りはどんな愚昧もかすませた。彼の瞳に映っているのは、ただ、ただ、肩書きばかりだ!
 だというのに、『オレ』に対する気持ちが欲しくて、ほしくて仕方がなくて、もう、抑えているのがつらいのだ。膨れ上がった願望で、心臓が破裂寸前だった。
 他人任せな世界の防衛と、ひどく個人的な世界の崩壊の両方を棺桶一つに納めて、眠りから覚めるのを心待ちにしていたのだ。
「どういう意味です」
 ついぞ向けられたことのない鋭利な声音は――誤ったたとえであっても――天上の福音に等しく耳に届いた。
 とうとう。――とうとう、仮面が剥がされる。ボンゴレ十代目でない、矮小な男がやっと彼の瞳に映る。
「どうもこうも、そのままだよ」
 もう、何を取り繕う必要もない。
 なくしてしまうのだから、喪失に怯える必要はなくなるのだ!
 歪んだ解放感に自分の顔はいまやきっと晴ればれとして見えるだろう、相対する側の眉間には深い溝ができた。
「オレはあなたを知らないと、そう侮辱されるのですか?」
「そうだよ」
 知っているとでも?
 言外に含ませて、追いかけの言葉は足さなかった。
 自ら形にしてしまうにはあまりに空しすぎた。
 投げ捨ててしまいたいと思い始めたのはいつだったろう、淡い情(おも)いが泥の中でただひとつ、汚れないものだったころには両の手ですがりつくようにしていたけれど――きっとそれが間違いだった。
 必死にもがくうち、いつしかそれも泥にまみれてみすぼらしく、直視に耐えがたい我執と成り果て、見る影もない。
 手放すのなら、今しかなかった。
 いくらなんでも彼だって、今ならオレを捨てるだろう。

     ***

 虚しさがまさったのは一瞬だ。
 今の今まで何ひとつ届いていなかったのだと、十年余ものあいだ全身全霊を賭してきたことが些末なことに思われていたのだと、眩んだのは一瞬だ。
 突沸の勢いで湧き上がった衝動は、切れた脳神経すら繋いでみせた。凪いでいた精神(こころ)が渦巻くように歓喜を謳う。
 ようやく、ようやく彼がオレを望んでくれた、そういうことだと理解した。
 誰にでもやさしい10代目。
 争うことが苦手で、嫌いで、自分自身に関してだけあきらめるのが得意な人。
 そのあなたが!
「仰りたいことはそれで全部ですか」
 オレのまるごとでないと嫌だと、そう仰る!
 主に対し、感じたこともないほど獰猛な感情が湧く。抑えていたものが鎖を引きちぎって顔を出した、そんなふうに。
「うん、応えられないのなら、君はもう必要ない」
 愁眉を解いたあなたの顔を、オレはいったいどれくらいぶりに見るだろう。悪辣な言葉を口にしながら、いっそ穏やかにやさしい、そんな顔に見えた。
 主を苦しめていたもののひとつがおのれだったという事実は、身につまされる痛み、そしてそれとまるきり同等の歓喜をもたらした。
「狂犬を野に放つと?」
「自分で言うんだ?」
 ころころとした笑声は軽やかに大気を渉ったが、澱んだ気配を払拭するには至らなかった。
 情動はいまや皮膚の下で舌なめずりをしているのに、彼は少しも気づこうとしない。超直感も案外とあてにならない、などと不敬な考えが脳裏をよぎる。
 失えたとばかり思っていた情感は潜んでいるあいだ中、じっくりと力を蓄えていたらしい。――否、オレに、制御する気が、ない。
「狂ってなんかないくせに」
 いいえ、いいえ、10代目。あなたの犬はもう何年も前から狂っていますとも。あなたともあろう方がいったいどこで見誤られたのです?
 衝動を許して、腕を伸ばす。
 襟を捕まえても彼は逃げなかった。飴色の瞳はまっすぐとオレを射抜いて透徹とした決意に煌めいた。脊髄を這い上がる熱に唆されるまま、かぶりつく。
 緊張に冷えた唇に比して、中は焼けるように熱い。
 思うさま蹂躙して口内を弄る。驚きに硬直した舌を絡めとるのはむずかしかった。
「っ、にを!」
 胸を突かれて体を放す。
 上気した頬と濡れた唇には、もう先ほど見せていた高潔さなど残っていない。主の面には処理しきれない混乱がそのまま浮かんでいる。――本当に、どうしてオレが狂っていないだなんて思われたのか。
 初めて味わった口腔の味はもう思い出せない。獣さながらに唇を舐める。
「オレにはあなただけです」
 飴色の懊悩はオレの欲を、袖で乱暴に唇を拭う仕草は嗜虐心を煽りたてた。
「……きみ、は…っ、オレを見てなんかいないだろ」
 往生際の悪い言葉を糧に、もう一度逃げられないように両腕で囲い込む。
 鍛えられているのにそれでもなお肩は細い。しばらくの眠りが余計に肉を削いだのだろう。当然、力が出るはずもない。左腕を腰に、右腕を頭に回せば、怯えたようにすんと鼻を鳴らして動きを止めた。
 温かな脈を打つ体が腕の中にある!
 それは、一打ちごとにがらんどうになっていた場所をひたひたとふさいだ。震えている――と思ったものは主ではなく、おのれの腕だ。つぶしてしまわないように力を抜くための力が必要だった。
 小さな頭に頬を寄せれば、主のくせっ毛がふわふわとして……膨れあがった不安や不満、失えたと凍らせた心をやわらかく慰撫した。
 首の急所を主に向けて明け渡していつ食い破られてもいいようにすれば、すっかり見失っていた足場が再び現れたようだった。
 腹を見せて横たわる犬と、それはきっと寸分違わぬ姿だろう。
 彼がオレのこんな依存を快く思っていないのは分かっていたけれど、狂気の根幹に根ざすのは、全面降伏の心服だ。あなたよりオレの方がよほどあなたのことを知っていると……それは、ずいぶんな思い上がりだったと思い知らされたけれど。
「オレがあなたを見ていないなど、まさか今さらあなたのダメなところを挙げろなんてそんなことじゃないでしょうね?」
 我ながら面映いような、甘ったるい声が出た。
 答えはない。
「挙げていきましょうか?」
 耳元で笑えば、傷だらけの拳がオレの口を塞いだ。
「獄寺君は、オレの、ことなんかっ」
 押さえる指先に口づけて、慌てて離れた手を掴まえる。そうしておいてもう一度小さなキスを手のひらに。
「オレが選ぶのはあなただけです」
 もし、――もしも、オレが自分の心に嘘をついているように見えたとするならば、それは。
 ひどい恋着を隠すためにしたフタを、取り違えられたに違いなかった。
「あなたこそ、どうしていまさらオレに一番を求めたりするんです」
 出会って十余年。ボスにはならないと言い続け、なったらなったで、上司であって主ではないと言い続け。決してけっして、オレに首輪をつけてくれなかったくせに!

 覗きこんだ瞳が戸惑って揺れるのを、隠した牙を研いで待つ。


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